
炊飯器のスイッチを「ピッ」と押す。 私たちにとって、それは毎日の当たり前の光景です。
しかし、その何気ないスイッチ一つに、戦後の日本を変え、台所に立つ女性たちへの深い愛情が込められているとしたら、どうでしょう?
今では当たり前の「自動でご飯が炊ける」という奇跡が、かつては存在しなかったこと。
そして、それを実現するために人生を懸けた男たちがいたという事実。
この記事を読み終える頃には、あなたの家の炊飯器が、単なる調理家電ではなく、家族を想う優しさと、技術者たちの執念が詰まった「宝箱」のように見えてくるはずです。
夢の源泉:「かまどの番人」を解放せよ
物語の舞台は、今から約70年前、1950年代半ばの日本。
戦争の傷跡から立ち直り、人々が未来への希望に燃えていた「高度経済成長期」の幕開けの時代です。
街には活気が戻り、家庭には「三種の神器」と呼ばれた白黒テレビ・洗濯機・冷蔵庫が普及し始めました。
暮らしは日に日に豊かになっていく。
しかし、その華やかな時代の光の裏で、日本の台所は、いまだ江戸時代から続く重労働に縛られていました。
それが、「ご飯炊き」です。
「はじめちょろちょろ、中ぱっぱ、赤子泣いても蓋とるな」
かまどに薪をくべ、うちわで火力を調整し、片時もそばを離れられない。
お米を炊くという作業は、それ自体が熟練の技を要する、大変な仕事でした。
この光景を、歯がゆい思いで見つめていた男たちがいました。
東芝(当時の東京芝浦電気)の技術者たちです。
彼らが見ていたのは、汗を流しながらかまどの前に付きっきりで、家族のためにご飯を炊く、自分たちの母親や妻の背中でした。
「この過酷な『かまどの番人』という役割から、日本の女性たちを解放できないだろうか?」
それは、ビジネス的な成功よりも、もっと切実で、個人的な「祈り」にも似た思い。
愛する人への優しさから生まれた、静かな革命への挑戦でした。
高い壁:「かまどご飯」の味と「自動化」の謎
彼らが目指したのは、ただ「米が炊ける」だけの機械ではありませんでした。
目標は、当時の誰もが「一番うまい」と信じていた、薪で炊く「かまどご飯」の味を、電気で完璧に再現すること。
しかし、その前に、最大の難問が立ちはだかります。
それは、どうやって「炊き上がり」を機械に判断させるか、という謎でした。
単純なタイマー式では、すぐに壁にぶつかりました。
夏と冬では水道水の温度が違い、家庭によって電圧も微妙に違う。
同じ時間設定では、ある日はべちゃべちゃに、またある日は芯が残ってしまう。
これでは「自動化」とは到底言えません。
開発は暗礁に乗り上げ、試作品の釜の山が築かれていきました。
執念の格闘:200kgの屑米が教えてくれたこと
諦めかけたチームを救ったのは、ある技術者の逆転の発想でした。
「炊き上がりの時間を計るのが難しいなら、釜自身に『炊きあがったよ』と教えてもらえばいいんじゃないか?」
実験を繰り返すうち、彼らはある法則を発見します。
釜の中の米が水分を吸い尽くし、ご飯が炊きあがった瞬間、釜の温度は100℃を超えて急激に上昇する。
この温度変化を検知できれば、完璧なタイミングでスイッチを切れるはずだ!
光明は見えました。
しかし、当時の日本に、そんな精密な温度スイッチは存在しません。
「なければ、自分たちで作るしかない」。
彼らは、温度によって曲がる性質を持つ「バイメタル」という金属を組み合わせた、手作りの温度スイッチを考案します。
しかし、ここで新たな問題が生まれました。
その手作りスイッチを、どこに取り付ければいいのか?
釜を直接温めるヒーターのすぐそばに置くと、ヒーターの熱に直接反応してしまい、ご飯が炊きあがる前にスイッチが切れてしまいます。
かといって、釜から離しすぎると、今度は肝心の「炊き上がりの温度上昇」を正確にキャッチできません。
この難問を解決したのが、今では当たり前となった「内釜」と「外釜」の二重構造でした。
お米を入れる「内釜」と、ヒーターやスイッチを収める「外釜」を分けることで、両者の間に絶妙な空間が生まれます。
この空間のおかげで、温度スイッチはヒーターの熱に惑わされることなく、内釜の温度だけを正確に監視できるようになったのです。
そこからは、まさに執念の格闘でした。
毎晩、研究室に米を持ち込み、試作品の釜で炊いては、温度を測り、失敗すれば捨てる。
その繰り返し。
近所の米屋から呆れられながらも、来る日も来る日も米を炊き続け、捨てられた「屑米」の量は、実に200kgにも及んだと言われています。
結論:スイッチ一つに込められた、家族への想い
そして1956年。
数えきれない失敗と、山のような屑米の末、ついに世界初の自動電気釜が完成します。
それは、日本の台所から「かまどの番人」を解放し、家族の時間を生み出した、静かで、しかし偉大な革命の瞬間でした。
次に炊飯器のスイッチを押すとき、少しだけ思い出してみてください。
その釜の中には、美味しいご飯と一緒に、家族を想う開発者たちの、温かい愛情と執念が炊き込まれているのです。
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